「手をのばせば届くのに、どこよりも遠い場所」  その@


 十三歳で母が家から出ていった。原因は父の不倫と暴力だった。
 父は俺を育てる気など全く無いようで、いつも酒を飲んではフラッとどこかに出かけ、そのまま何日も戻ってこない、というような暮らしをしていた。俺は、誰もいない小さな部屋で、一人で泣いた。
 十六歳で少年院に入った。原因は窃盗と暴行だった。コンビニで弁当を盗もうとして店員に見つかり、その店員を力任せに殴って前歯を二本折った。父は一度も少年院には来なかった。
 十八歳で家を出た。出る時、父を散々殴った。自分の手が父の血に染まる程殴った。顔面血だらけになりながら、父は俺にこう言った。
「俺はお前を愛してやれない」


 夜の新宿を歩いている時に、初老の男と肩がぶつかった。羽織袴を着ていて、肩がぶつかっても謝ろうともしなかった。俺は凄い剣幕でその男にけしかけた。しかし、初老の男は全く動じる事無く、俺を見つめ返した。鋭く、濁りの無い目をしていた。
 俺はその視線が何故だか異様にムカつき、男を殴ろうとした。
 しかし、男の後ろにいた何人かの男達に羽交い締めにされ、逆に殴られた。顔、腹、腕、足。ありとあらゆる所に青あざが出来る程、徹底的に殴られた。でも俺は初老の男の見せたあの視線が頭から離れず、何度殴られても起き上がり、男達に向かっていった。あの視線に負けたような気がして、耐えられなかった。口の中やまぶたが切れても、立ち向かった。
 その終わりの無い喧嘩を止めたのは、その初老の男だった。男は名前を名乗った。
 山名順一郎(やまな じゅんいちろう)という名前だった。俺はその時、そんな名前は知らなかった。でも、しばらくしてからその名前の凄さを知った。山名順一郎。新宿の裏社会を仕切っている暴力団の組長。部下は百人を越え、彼にたてつく者は新宿では一人もいない。その男が、倒れ、血を吐く俺に手を差し伸べた。
 二十歳の時、暴力団に入った。


 「今日から私の組に入る事になった、冬月影一(ふゆつき えいいち)だ。まだ若いが相当の鉄砲玉だ。みんな、仲良くしてほしい」
 新宿の一等地に立っているビルの一室で、俺は組長の手によって自己紹介をされた。俺を見ている男の数は十人程だった。明らかに恐そうなのもいたが、サラリーマン風の男や、一見するととても優しそうな男もいた。皆、一言も口を聞かず、黙って組長の言う事を聞いていた。
「影一。お前には何も言っていなかったが、俺の組は俺の下に幹部という役職の奴がいる。それぞれ、厄介事を解消する役や金を集める役という風に、仕事が違う」
「はい」
「お前は山下の下についてもらう。細かい事は山下から聞いてくれ。いいな、山下」
「分かりました」
 そう言ったのは、三十くらいの痩せた男だった。黒く柔らかそうな髪の毛をしていて、優しい瞳を持った男だった。とても、暴力団に入っている人間には見えなかった。


 このビル全てが組長の所有物だった。組長は最上階の五階にいて、俺はその四つ下の最下階の部屋に連れていかれた。
 部屋は大体二十畳くらいで、どこかの会社のようにパソコンが並ぶテーブルと椅子が四つ置いてある。他には茶色い長椅子が二つ、窓際に置かれていた。そこには今、誰もいなかった。山下さんは部屋に入ると長椅子に腰掛けた。
「お前も座れよ。ええと、冬月君だったっけ?」
 山下さんはズボンのポケットから煙草を取り出しながらそう言った。俺は少し緊張しながら、それに従った。
「そんなに堅くならなくていい。暴力団と言っても、色々な奴がいる。俺はその中でも相当低い位置にいる。だから、俺はあんまり恐い顔が得意じゃないんだ」
 世間話をするような気楽な感じで、山下さんは言った。俺は山下さんの前に腰掛けた。すると山下さんが煙草を差し出してくれる。俺は軽く一礼をして、一本抜き取った。火まで山下さんがつけてくれた。俺は何だか調子が狂うような、そんな気分になった。
 二本の煙に覆われた俺と山下さん。山下さんは、背中を丸くしながら話し始めた。
「俺達がやる事は、一言で言えば雑用だ。集まった金の金額を調べたり、部屋の掃除、たまに死体の処理なんかもやるが、そういう事はまれだ。どうだい? 落胆したかい?」
 低く笑いながら、山下さんは煙草の煙を吐き出した。俺は苦笑いして答える。
「いえ。何をやるかなんて全然知らなかったし、正直、最初から誰かを殺せとかそういうの命令されると思ってましたから、何だか安心した気持ちです」
「ははっ、この辺一帯は完全に組長のシマだからね。最近はドンパチなんか全然無いよ。
僕もここ数年死体を見ていない。昔は凄かったみたいだけどね。けど、そのお陰で今は楽に暮らしているよ」
 山下さんの話し方は本当に普通だった。ここが暴力団のビルの中だという事を忘れてしまう程だった。現に、この階には俺と山下さん以外誰もいない。
「でも、君には特別な仕事があるんだ」
 周りの空気が一瞬で張り詰めるような、そんな気がした。目の前にいる山下さんは、さっきまでの山下さんとは違っていた。重い決心を抱えた、男の顔になっていた。
「特別?」
「ああっ、これは新しく入る奴なら、必ず最初にやらなくてはいけない事なんだ。皆、この仕事をやって初めて一人前とみなされる。この仕事で、組への忠誠心を示すんだ」
「‥‥」
「娼婦の世話だよ」
 山下さんは煙草を灰皿に押し付けながら言った。


 山下さんと知り合った次の日。朝早くから、俺は山下さんの車に乗せられた。
 組長のビルから車で二十分くらい行った、高級な家やマンションが立ち並ぶ住宅街。俺は山下さんに連れられてここまで来た。都会の喧騒などここには無く、車道と歩道の間にたたずむ無数の木々が美しい葉をしげらせている。
 車は、茶色いレンガで出来た高級なマンションの前で止まった。車に乗っている間、山下さんはその“仕事”について詳しく説明してくれた。
「別に女の仕込みや調教をやるわけじゃない。単純に、一人の女の世話をするだけだ。何か食べたいと言ったら買ってきてやったり、食事を作ったり、風呂に入れて体を洗ってやったりするんだ」
「その人は、自分でそういう事は出来ないんですか?」
「出来ないわけじゃない。でも、いつ逃げるか分からないし、もしかしたらやくざの娼婦が嫌で自殺するかもしれない。つまり、君は監視員なんだ。君が世話をする女は組長の娼婦だ。だから、組長と会う時は体に傷なんかあっちゃいけないし、体調も精神状態も良くなくちゃいけない。君が監視し、管理するんだ」
「‥‥」
「金は一日五万支給される。彼女が何か高いものを要求したら、それに応じて別に金も支給される。女に大して問題が無ければ、正直これほど楽な仕事は無い」
「‥‥俺もそう思います」
 言った通りだった。今まで女と付き合った事が無いわけではない。セックスどころか、同棲だってした事がある。女を扱うノウハウは大体把握していた。だから、山下さんから話を聞いて、何が特別なのだろうと思った程だった。
「ただし、二つだけ、決してやってはいけない事がある」
 マンションの前で止まった車の中で、山下さんは煙草に火つけた。車内が少し白くなった。
「やってはいけない事?」
「そうだ。これを守れるかどうかで、組への忠誠心が分かるんだ」
「‥‥‥何です?」
「一つ。決してその女と性的な関係を結んではいけない。女は組長の娼婦だ。組長以外の男は決して彼女とセックスをしてはいけないんだ。そして、もう一つ。決して彼女を愛していけない」
「‥‥」
「例え、彼女が君の事を好きだと言っても、決して君はそれに応えてはいけない。彼女の身も心も愛せる資格があるのは組長だけだ」


 マンションの最上階の一番端の部屋が、組長の娼婦の部屋だった。組長が彼女の為だけに買った部屋なのだそうだ。
「‥‥」
 山下さんの言った二つの約束事。俺は正直、それが守れるかどうか分からなかった。組長が目をつけた女なら、相当な美しさを持っているだろう。性格までは分からない。でも、そんな女と二人きりで生活して、果たして守れるのだろうか。
 山下さんがその後、少し言葉を付け加えてくれた。女が欲しくなったら別の女を用意する、と。それでも俺は、自分自身に確信が持てなかった。ドアの前に立つ。山下さんは俺に鍵と茶封筒を渡してくれた。茶封筒の中には一万円札が五枚入っていた。
「俺は帰る。一日一回来るから、情況を報告してくれ。これが今日の金だ」
 そう早口で言うと、山下さんは俺の横を通り過ぎ、足早に階段を降りていってしまった。一人の残された俺は、しばらく鍵と茶封筒を眺めていたが、しばらくしてドアの鍵穴に鍵を入れた。
 玄関は綺麗なものだった。ハイヒールの靴が二足、置いてある。玄関から廊下が続いていて、三つの部屋が見えた。一つは廊下の真っ正面にあり、おそらく居間だろう。他はここからは見えない。俺は何も言わず、靴を脱いで部屋に入った。
 玄関から一番近い左側にある部屋は台所になっている。しかし、台所は長い間使われていなかったかのように、水雫一滴すら無かった。玄関から二番目の部屋はトイレと風呂場になっている。ここも引っ越したばかりのように、とても綺麗だった。
 居間にゆっくりと足を踏み入れた。少し大きめのベッドと小さめのテーブルとテレビ、そして緑色の観葉植物が置かれていた。テレビと観葉植物は窓際に置かれていて、窓からの眺めはとても良かった。ベッドは入り口付近にあり、壁の方に枕が置いてある。居間から、もう一つの部屋に行けた。今は扉が閉まっていて、中が見えなかった。
 そして、その人はベッドに深く腰掛けて本を読んでいた。俺に背を向けていて、どんな顔をしているのかは分からない。しかし、漆黒の美しい黒髪が背中全体を隠していて、真っ白いワンピースを着ているのが分かる。とても痩せていたが、胸やお尻にはほどよい膨らみが感じられた。
 俺はその触れられないような雰囲気に圧倒されて、思わず唾を飲み込んだ。何でもない光景だったが、俺が今まで会ってきた女とは確かに違った。唾を飲む音で気づいたのだろう。その人は振り向いて、俺を見た。
「‥‥おはよう。いい天気ね、今日も」
 彼女は小さく微笑んでそう言った。大きめの瞳を細め、桃色の唇を微かに開けて、そう言った。俺はそれに対して何も言えなかった。
 美しかった。今まで会ったどんな女よりも美しかった。抱き締めれば崩れてしまいそうで、それなのにどこか近寄りがたい、不思議な空気を持っていた。本を持つ指は絵に描いたように白くて細く、黒い髪の毛が朝日を浴びて薄茶色になっていた。
「冬月影一君、でしょ? 私、綾坂春奈(あやさか はるな)って言うの。これから、よしくね」
 春奈さんはゆっくりと立ち上がり、私の目の前に立った。俺よりも背は低く、パッと見ると弱々しく見える。でも、落ち着き方といい、物腰といい、とても上品で優雅で、表現しがたい強さのようなものが伺えた。目の前に立たれると、その美しさがより際立って見えた。吸い込まれそうな深い碧色の瞳が、じっと俺を見ていた。
「まだ若いんですってね。二十歳だっけ? 羨ましい、私なんかもうおばさんよ。あなたよりも八つも年上なのよ」
「‥‥とても、そうには見えません」
「ふふっ、ありがとう」
 そう言うと、春奈さんは俺の頬を優しく撫でてくれた。冷たい指が数本、熱くなった俺の頬に触れた。身震いするほど、心地好かった。


 その日の夜は出前をとる事になった。フランス料理とか、そういうものを食べるのかと思ったが、意外にもピザだった。
「たまにこういうものが食べたくなるのよ。順一郎さんと一緒にいるとフランス料理とか、イタリア料理とか食べるから、ここにいる時はこういう方が落ち着くの」
 テーブルの上に大きめのピザと烏龍茶を並べ、俺と春奈さんは静かな食事の時を過ごした。テレビが小さめの声でニュースを伝え、窓の夜景が無数テールランプを窓に映している。
 春奈さんは一言一言を子供を諭すような言い方でする。年下だから、俺を弟か何かのように見ているのだろうか。俺は今までそんな経験は一度も無かった。同等な立場で女と話をした事はあったが、こうやって甘やかされるような感じで、話をした事は無かった。
 息苦しさは感じなかった。山下さんからあの二つの掟を聞かされた時は、戸惑いがあったが、今は不思議とその重圧のようなものは感じなかった。そして、その近寄りがたい雰囲気からなのか、性欲もわかなかった。
「一つ聞いていい?」
 クリーム色のズボンと薄緑色のセーターを着た春奈さんは、テーブルに両肘をつきがら訊ねる。綺麗な目がじっと俺を見つめている。
「何ですか?」
「どうして、順一郎さんの組に?」
 そう聞かれて、俺は少し戸惑ったが、組長との出会いを話した。昔の事はあまり話したくなかったので、そこらへんは省略して話した。春奈さんは興味深げに俺の話を聞き入っていた。
「へえ、あの人に因縁つけるなんて、勇気があるのね」
「いや、その時はあの人の事なんて知らなかったから。今じゃ、とてもそんな事出来ませんよ」
 和やかな雰囲気だった。ピザと烏龍茶を囲んで、とりとめもない話を続ける男と女。普通の人が見たら、恋人同士の戯れか何かに見えるだろう。でも、本当は違う。一つの巨大な暴力団の組長の女と、その暴力団に入ったばかりの新人やくざ。決して、結ばれる事も愛される事も出来ない関係。
 春奈さんはその事を分かっているのだろうか。終始笑顔で、そんな裏の事情などまるで分かっていないような気がする。でも、そんな事はないだろう。今まで何人の男が春奈さんの世話をしてきたかは知らない。きっと多くの者がその“掟”を果たせるかどうかで、ここを訪れたはずだ。春奈さんは全てを分かって、それでいてこんな態度をとるのだ。俺を試しているのだ。
 俺はそう思いながら、笑顔の春奈さんは話を続けた。


「お風呂に入るわ。洗ってくれない? 体」
 夜の十一時頃、春奈はふいに立ち上がりそう告げた。
「えっ?」
「あなたの仕事でしょ、これは」
 ピザも烏龍茶も無くなり、話す話題も言葉少なになっていた時だった。春奈はさっきまでの穏やかな雰囲気とは少し違った、ピリッとした神経質な顔でそう言った。まるで怒っているかのような口調だった。見上げる俺は、思わず聞き返してしまったが、これは山下さんが言っていた事だった。俺は期待と不安を当時に抱え、立ち上がる。
「分かりました。じゃあ、沸かしてきます」
「あまり熱くしないでね」
 どこか他人行儀な笑みを浮かべた春奈さんは、ベッドに腰掛けると枕元に置いてあった煙草に手をのばした。俺はライターの火が灯る音を聞きながら風呂場へ向かった。


 俺は裸にならず、ズボンを膝上までまくり上げ、Yシャツの袖も同じように肘上までまくって、風呂場の中で春奈さんを待った。バスタブには暖かい湯がはってあり、白い湯気が絶える事無く舞っていた。室内の熱さ以外にも、別の意味で汗をかいていた。
 春奈さんは一糸まとわぬ姿でやってきた。タオルも何もつけていなかった。
 水色のタイルが色褪せて見える程、春奈さんの裸体は綺麗だった。肌色ではなく、雪のように白い肌。整った体付き、真珠のように光り輝く手や足の爪、くびれた腰に、豊かな胸。黒い髪の毛や胸が一歩二歩と歩く度に揺れて、俺は言葉も無く、その光景を見入っていた。
 春奈さんは黙って、俺の前にある風呂場で使う小さな椅子に腰掛けた。
「背中から洗って。それから体全体ね。最後に顔と髪の毛をお願い」
「‥‥」
「聞いてる?」
「えっ? ‥‥‥あっ、はい、分かりました」
 彼女の言葉で俺はハッと我に返り、プラスチック製の桶でバスタブから湯をもらい、スポンジと石鹸をその中に入れて、泡立てた。
「‥‥髪の毛、前に動かしていいですか?」
 泡立て終え、洗おうとしたが黒い髪の毛が背中全体を覆っている為、そのまま洗う事が出来なかった。だから、そう訊ねた。でも、ひどく失礼な事を聞いているような気分になった。
「いいわよ」
 春奈さんはそれだけ言うと、手で髪の毛を前に移動させた。その時初めて、春奈さんの背中を見た。背骨の筋がはっきりと見えて、染み一つ無かった。肩の丸み具合い、腰から尻へと続くなだらかな起伏、全てが一つの長い曲線になっているようで、一つの芸術作品を見ているようだった。
 それを壊してはいけない、と思いながらゆっくりと、恐る恐る春奈さんの背中にスポンジを押し当てた。スポンジからじわっと泡が溢れ、背中を伝っていく。泡が流れた跡は、虹色の光が残っていた。
「‥‥私はね、あなたの事を試してるわけじゃないのよ」
 丁寧に背中を洗っている時、不意に春奈さんがそう言った。背中を向けているから、どんな顔をしているかは分からない。でも、俺はそれに応じず、黙って背中を洗っていた。春奈さんは、最初からそれが分かっていたようで、独り言のように言葉を紡ぐ。
「聞いてると思うけど、あなたは絶対に私と関係を持てない。それに、愛する事も出来ない。私も、あなたに体を預ける事は出来ないし、好意を持つ事も許されない」
「‥‥」
「だから、私はきっとあなたに冷たい態度をとるわ。許してね。決して、あなたの事が嫌いなわけじゃないから」
「最後の言葉、取り消してください」
「えっ?」
 俺のその言葉を聞いて、春奈さんはこちらを振り向いた。目を丸くしていた。俺はその顔を見ずに答えた。
「冷たい態度をとるならば、そんな事は言わないでください」
 俯いて、そう呟いた。しばらくスポンジを動かす手も止まり、押し黙った。春奈さんも俺の様子を理解したらしく、小さくため息をつくと、ごめんなさい、と言って首を戻した。
 そんな事は分かっています。そう言いたかった。


次のページへ    ジャンルへ戻る